ヒプノセラピーの歴史
ヒプノセラピーとは催眠を使って潜在意識にアクセスし、肯定的は変化を促すものですが、「人類がいたところには催眠があった」と言われるほど、とても長い歴史を持っています。
1860年代、ピエール・ジャネー(Pierre Janet)と、アルフレッド・ビネー(Alfred Binet)は、深いトランス状態を誘発させて、深い催眠現象についての研究をしていました。そして、このときの実験はとても有意義なものでした。
例えば、催眠を使って患者の手の皮膚に損傷を作り出し、それをまた消し去るということが行われていました。この時代に研究されたことは、私たちの身体をヒーリングするという観点からは、すばらしいものだったのです。
- ◆古代エジプト時代
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催眠はもう何千年にもわたり実践されてきた歴史があります。例えば、サンスクリット語で書かれた書物に、催眠トランスを使用することでヒーリングを起こしていたことや、「眠りの寺院(Sleeping Temple)」に関する記述が確認されています。
この寺院に入っていくとトランスに入るような仕掛けになっており、最後に祈祷師から暗示が与えられることで病が癒されます。
エジプトのパピルス紙にも「眠りの寺院」の存在が記載されており、ヒーリングのためにトランスが使用されていました。
- ◆1500年代
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1500年代になると、パラケルスス(Paracelsus)が現れます。彼はスイス人のお医者さまで、梅毒の水銀治療を発案した人物として知られています。
また彼は、磁石を使ったヒーリングを始めた最初の医師の一人としても有名で、多くの患者がこの手法で病気を治しました。
- ◆1600年
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1600年になると、アイルランド人のバレンタイン・グレートレイクス(Valentine Greatrakes)が登場します。
彼はマッサージのような手かざしと磁石を使ってヒーリングを起こしていました。人々は彼のことを「偉大なアイルランドのストローカー(撫でる人)」と呼びました。
- ◆1725年
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1725年になると、イエズス会の牧師であるマクシミリアン・ヘル神父(Maximilian Hehl)が登場します。
彼もまた磁石を使って治癒を起こしていました。
しかし催眠の歴史において彼の名前がよく取り上げられるのは、彼の若い弟子で、まだ若い医師であったフランツ・アントン・メスメル(Franz Anton Mesmer)の師であったからです。メスメルはウィーン出身で、彼によってヘル神父の名前は催眠の歴史に残ることになります。
- ◆メスメル登場
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フランツ・アントン・メスメルはイエズス会から地元のウィーンに戻り、ヘル神父が行っていた磁気ヒーリングを自らの患者に試します。
当時の主要な治療法の一つに、流血療法(bloodletting)がありました。メスメルは患者の血管を開き、しばらく血を流させ、すべてが終わると切り口に磁石をあてました。すると血は止まります。
ある日、メスメルは血を止めるための磁石が見つからず、その辺の棒をつかんで患者の切り口にかざしました。するとやはり血は止まったのです。つまり、磁石を使わなくても血が止まったのです。
彼の一連のヒーリング手法は、後に「動物磁気(Animal Magnetism)」と呼ばれるようになります。動物磁気を現代の催眠に置き換えて言えば、ノンバーバルな暗示(非言語暗示)であり、これがトランスを引き起こして血が止まったのだと言われています。
- ◆メスメル、パリに行く
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メスメルはウィーンで医師として成功を収めた後、フランスのパリへ移ります。フランスの上流階級を中心に、多くの人々がメスメルの磁気治療を受け、彼は大きな成功を収めました。
しかしその成功は同業の医師たちの反感を買い、彼らはメスメルの手法を「いかさま」だと言い出します。
あまりにも有名になりすぎたメスメルは、当時の王からも目をつけられます。王は諮問委員会を結成し、当時「動物磁気(Animal Magnetism)」と呼ばれていた彼の手法が本物かどうかを調査させることにしました。
- アントワーヌ・ラボアジェ
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諮問委員会の一人が、アントワーヌ・ラボアジェ(Antoine-Laurent de Lavoisier)です。彼は質量保存の法則を発見した著名な科学者で、「近代科学の父」とも呼ばれています。
- ベンジャミン・フランクリン
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もう一人は、当時パリに駐在していた米国の外交官、ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)です。彼の肖像画はアメリカの100ドル紙幣に登場しています。
- ジョゼフ・ギヨタン
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そしてペインコントロールの権威として有名だった医師、ジョゼフ・ギヨタン(Joseph Ignace Guillotin)も諮問委員会のメンバーでした。
- ◆諮問委員会の調査結果は?
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彼らはメスメルに対する調査結果をまとめましたが、フランクリンはこう言いました。
「メスメルは彼の手から目に見える如何なるものも出していない。よって、メスメルはいかさまに違いない。」
これによりメスメルはパリを去ることになり、地元のウィーンに戻ります。
ヒーリングのためのエネルギーワークという概念が、西洋の医学界や心理学界から長い間無視されることになった背景には、この事件の影響が大きいと言われています。
メスメルはパリから追放されましたが、それでもなお、多くの人がメスメリズムを実践しました。その中に、ピュイゼギュール侯爵(Pusseguyr)がいます。彼は貴族でありメスメリストでもあり、彼が作り出した「夢遊(ソムナンバリスト:somnambulist)」という言葉は、今でも深いトランス状態を指す言葉として使われています。
- ◆ジョン・エリオットソン
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場所をイギリスに移しましょう。ロンドン大学医学部で教鞭をとっていたジョン・エリオットソン(John Elliotson)も、メスメリズムの信奉者でした。
フランスでメスメリズムが否定された後も、彼はメスメリズムを使い続けましたが、ロンドン大学という権威ある組織は、彼にメスメリズムの放棄を勧告します。エリオットソンはそれを無視し続け、その結果イギリスの医学界から追放されるという事件が起こりました。
- ◆催眠の名付け親、ジェームス・ブレイド
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1840年ごろ、ロンドンの若い医師ジェームス・ブレイド(James Braid)は、ラ・フォンテインというメスメリストがメスメリズムのデモンストレーションを行うという噂を耳にします。
医師としての正義感から「まだそんなイカサマが行われているのか!」と怒りを覚え、そのイカサマを暴くつもりでデモンストレーションに参加しました。しかし、実際の手法を見れば見るほど、ブレイドはその現象に魅了されていきます。
当時のメスメリストは、患者の頭のそばに立ち、体に手をかざしていくような手法を用いていました。そこでブレイドの興味を引いたのは、頭に手をやったとき、患者の目が上を向きながら一点を凝視したような状態になっていたことです。
ブレイドは、この「一点集中」こそが、患者を通常状態からトランスへと導く鍵だと考え、この状態をギリシャ語の「眠る」を意味する「Hypnos」から、「Hypnosis(催眠)」と名付けました。
そして1843年、人類史上初めてとなる催眠に関する書籍を出版し、その中で「目の一点凝視」がトランスを引き起こすことを紹介しました。
- ◆ジェームズ・エスデイルの催眠麻酔手術
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同じ時期、当時イギリス領であったインドで活躍していた医師がいました。彼の名はジェームズ・エスデイル(James Esdaile)です。
彼は「メスメリズム・イン・インディア」という本を書き、メスメリズムを主に痛みの軽減とコントロールに利用していました。いわば催眠麻酔です。
エスデイルはメスメリズムを使って500件以上もの手術を行いました。それらの多くは、通常なら大変な苦痛を伴う手術でしたが、メスメリズムの使用により、患者はより少ない苦痛で手術を受け、回復も早かったと報告されています。
しかし、イギリスに帰国してこれを報告した際、多くの医師は彼の主張を信じませんでした。痛みの軽減にメスメリズムを使っているとして、イギリス医学界から追放されかけたのです。
こうした議論が続きましたが、やがてクロロホルムが発見され、催眠によるペインコントロールの議論は下火になっていきました。
- ◆ナンシースクール
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1864年、フランスのナンシーという町にリエボー(Liebault)という医師が登場します。彼は催眠を使ったセラピーの手法を発展させました。
リエボーの同僚にベルネーム(Bernheim)という医師がいました。彼は坐骨神経痛の患者をリエボーに診てもらい、患者の症状がほとんど一日で治ったことをきっかけに、この不思議な「催眠」という現象を研究し始めます。
その後、リエボーとベルネームは協力してナンシー催眠スクールを設立しました。
このナンシースクールで、後に精神分析家として有名になる若き日のジークムント・フロイト(Sigmund Freud)が、リエボーとベルネームのもとで熱心に催眠を学び、実践していたことでもよく知られています。
しかし最終的にフロイトは催眠を使わなくなります。公には、ある女性患者がトランスの中で突然飛び上がり、フロイトにキスをしたことにショックを受けたからだと言われています。
裏話としては、フロイトはコカインの使用により歯がボロボロになり、入れ歯がうまく合わず、催眠誘導に必要な話し方がうまくできなかったとも言われています。
彼にはブロイアー(Breuer)という催眠家でありライバルがいました。そこでフロイトは、彼に対抗するように「話し合い療法(Talking Therapy)」を発案します。これは100〜300時間ものセッションを必要とする、時間のかかる療法でした。
この「話し合い療法」が、後に「精神分析(Psychoanalysis)」として知られるようになり、ヨーロッパの心理学の歴史を大きく変えていきます。その流行の影で、催眠は一時的に影をひそめることになりました。
- ◆ウィリアム・ジェームス
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1890年、ちょうどフロイトの心理学が流行する前に、ウィリアム・ジェームス(William James)は、心理学における最初の本格的な書籍である2部作『心理学原則(Principles of Psychology)』を出版します。
これは、催眠家や対人援助職に携わる人にとって、一度は目を通しておきたい名著ですが、残念ながら完全な日本語訳は出版されていません。
- ◆分析派と行動主義
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20世紀の初頭、心理学には二つの大きな流れが生まれました。
一つはフロイトの流れをくむ精神分析の派です。代表的な人物は、フロイトの弟子であるカール・ユング(Jung)やアドラー(Adler)です。
もう一つは、精神分析派に同意しなかった行動主義の流れです。
行動主義は、アメリカの心理学者ウィリアム・ツイットマイヤー(William Twitmeyer)の研究から始まります。彼は、患者の膝をハンマーで叩くと足が反射的に上がる「膝蓋反射」に着目しました。
1902年、彼はアメリカ医学協会に「膝蓋反射」という論文を発表します。その第二部で、何度か膝を叩いた後、叩くふりをしただけでも足が上がるという、条件反射に関する興味深い研究結果を報告しました。
これは条件反射研究のごく初期の重要な論文でしたが、アメリカ医学協会はその重要性を十分に理解しませんでした。
- ◆条件反射とパブロフ
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このツイットマイヤーの論文は、ロシアの研究者イワン・パブロフ(Ivan Pavlov)のもとに渡ります。
パブロフはこの論文を読み、2年後の1904年に、犬を使った有名な実験を含む「条件反射(Conditioned Reflexes)」の論文を発表し、心理学はさらに新しい方向へ進み始めました。
- ◆ヨーロッパからアメリカ合衆国へ
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催眠に関する研究は、ヨーロッパ大陸からアメリカ合衆国へと引き継がれていきます。
ハーバード大学のボリス・サイディス(Boris Sidis)は『暗示の心理学(The Psychology of Suggestion)』を出版し、その中で催眠と暗示の関係を詳しく説明しました。
同時期の1903年、イギリスではミルヌ・ブラムウェル(Milne Bramwell)が『催眠の歴史(History of Hypnotism)』を出版し、それまでのさまざまな催眠手法を体系的にまとめました。
その後しばらく大きな進展は見られませんでしたが、1943年、エール大学のクラーク・ハル(Clark Hull)が『催眠と暗示性(Hypnosis and Suggestibility)』を出版します。この本は、心理学的な観点から催眠を本格的に扱った最初の書籍であり、若き日のミルトン・エリクソン(Milton Erickson)にも大きな影響を与えました。
- ◆魔術師、ミルトン・エリクソン
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今では「エリクソン催眠」と呼ばれ、多くの心理学者や催眠家がその手法を研究しています。特にNLPの多くは、彼の言語パターンなどを詳細に分析したものです。
ミルトン・エリクソン(Milton Erickson)は1920年から1980年までの約60年間、ほとんど毎日のように催眠セッションと研究に費やしました。
1日に最大14人のクライアントを60年間にわたり診続けてきた経験から生まれた彼の手法は、「変化の責任をクライアントにゆだねる」という、許容的な催眠スタイルを特徴としています。
その独特の催眠手法は、それまでの「命令型」の催眠とはまったく異なるアプローチであり、催眠のあり方を大きく変えました。
- ◆権威的催眠スタイルを確立させた、ジョージ・エスタブルック(George Estabrook)
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ジョージ・エスタブルック(George Estabrook)はコルゲート大学で教鞭をとり、アメリカ軍事関係者に対して催眠を用いたメンタルトレーニングを行ったことで知られています。
エリクソンが許容的な催眠手法を用いたのに対し、エスタブルックは古典的催眠に見られるような、直接的で権威的なアプローチを得意としました。
エリクソンの登場以来、「許容的な催眠こそが現代催眠だ」と考える人も多いのですが、場合によっては権威的なアプローチが良い結果につながることもあります。
そのため、エリクソン催眠とともに、エスタブルックの催眠スタイルも現代の多くの催眠家の研究対象になっています。
- ◆アンドレ・ウェットゼンホッパー(Andre Weitzenhoffer)
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20世紀を代表する催眠家として、アンドレ・ウェットゼンホッパー(Andre Weitzenhoffer)もまた、後世に大きな業績を残しました。
特に彼の著書『催眠の一般的なテクニック(General Techniques of Hypnotism)』は、多くの催眠家に愛読されている良書であり、その中で歴史上のさまざまな催眠テクニックを簡潔にまとめています。
- ◆デーブ・エルマン(Dave Elman)
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エリクソン、エスタブルックと並び、20世紀の催眠に大きな影響を与えたのが、デーブ・エルマン(Dave Elman)です。現在使われている催眠によるペインコントロール、催眠出産、年齢退行などは、彼の貢献なしには発展しえなかったと言われています。
20世紀に入り、アメリカの医師たちを悩ませていたのが、手術に伴う高い死亡率でした。多くの死因は麻酔の量を適切にコントロールできなかったことにあり、麻酔の量を減らすために催眠を活用しようという動きが起こりました。
そこで白羽の矢が立ったのがデーブ・エルマンでした。もともとステージ催眠術師の息子として育った彼は、人を一瞬にしてトランスに導く技術に長けていました。
特に彼の「即効誘導」は、権威的スタイルと許容的スタイルの良さをうまく組み合わせたもので、どんな患者に対しても短時間で深いトランスに導く優れた手法です。
心理学や医学の学位を持たなかったデーブですが、医師や歯科医を対象に催眠手法を教えたことで、現在ではアメリカの医療現場で広く彼の手法が採用されています。
彼の著書『Hypnotherapy』は、今では催眠家のバイブルとも言える一冊です。
- ◆レスリー・ルクロン(Leslie Lecron)
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観念運動を使った「指の動き」で潜在意識レベルの答えを引き出す方法は、現代の催眠手法で非常によく使われていますが、これらの手法を広く普及させた一人がレスリー・ルクロンです。
例えば、「はい」のサインを右手人差し指、「いいえ」のサインを左手人差し指と決めておき、クライアントをトランスに誘導して、口ではなく指の動きで答えさせる、という手法です。
この方法によって、学生のテスト成績が上がったという実験結果も報告されています。
- ◆ジェフリー・ザイク(Jeffrey Zeig)
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ジェフリー・ザイクは「エリクソン財団」の所長であり、アーネスト・ロッシ(Ernest Rossi)とともに「エリクソン催眠」の主要な著者・研究者です。
エリクソン催眠が伝説的な存在になっているのは、彼らの功績によるところが大きいと言えるでしょう。
- ◆クラズナー博士(A. M. Krasner)
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ヒプノセラピーの第一人者として多くの臨床現場で活躍したのち、米国催眠療法学院を設立し、多くのヒプノセラピストを育てました。そのメソッドは、現在のアメリカにおけるヒプノセラピーの基礎となっています。
また、ABH米国催眠療法協会(American Board of Hypnotherapy)の創設者でもあります。
著書に『Wizard Within』(邦題:『クラズナー博士のあなたにもできるヒプノセラピー』)があります。
- ◆ブライアン・ワイス
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元々精神科医であったブライアン・ワイス(Brian Weiss)は、あるセッション中の偶然から「前世療法」という手法を見出しました。
これは、催眠療法の一つである「年齢退行」や「胎児期退行」よりもさらに時間軸をさかのぼるというコンセプトで、多くの癒しの報告例があります。
前世の記憶(あるいはイメージ)の信憑性についてはさまざまな議論がありますが、「前世があると仮定する」という前提で行う「前世イメージ療法」としても同様の癒しが起こるため、必ずしも前世の実在を信じている必要はありません。
スピリチュアルな側面ばかりが注目されがちですが、現在ではヒプノセラピーの有効な手法の一つとして定着しつつあります。
- ◆タッド・ジェームズ
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ヒプノセラピストであり、NLPマスタートレーナーでもあるタッド・ジェームズ(Tad James)は、「タイムライン・セラピー™️」を開発したことで知られています。
この手法によって、従来のヒプノセラピーでは難しかった、より細かい作業や、強力な癒しを短時間で行うことが可能になりました。
「タイムライン・セラピー™️」はNLPのテクニックとして紹介されることが多いですが、そのスムーズな実践には、催眠トランスと退行催眠の知識が必須です。
クリアライトが提供しているヒプノセラピー講座
目的やレベルに合わせて選べる3つの講座を開講しています。どの講座も実践中心で、確かな技術を身につけられるカリキュラムです。















